自由に表現するということは

アトリエに来ている子どもたち、大人たちが楽しんでいる姿を写真に撮ることはとても好きです。

ただ、私自身も参加されている方たちの楽しさの中に入ってしまうと写真を撮ることを忘れていたり、手が汚れて写真どころではないことも多く、実は、最高な瞬間って、ほとんど撮れていないのでは?と思っています。

これから夏になるので、アトリエでもダイナミックな姿も多く見られることでしょう。

そこで、いつも気を付けていることは、

それが”自由な表現”と固定されないようにしよう」

ということです。

それとは、例えば、絵の具を手、足、からだ、顔に塗っていたり。

例えば、笑顔でからだを大きく動かしながらおしゃべりもたくさんしていたり。

もちろんそれは見ている私も面白いし、からだ全体で楽しんでるなあ!とうれしくなります。

ただ、そんな写真ばかりアップすると、それだけを見た大人が

「うちの子はこんな”自由に”できない(だからダメなんだ)」

「こんなふうにできない我が子は”表現”ができないんだ」

と思い込んでしまうことがあるからです。

手足を汚すことなく、道具を使ってのびのびしている子はたくさんいます。

笑顔でなくて、真剣な表情で向き合っている子もたくさん。(時に考え込むように、難しい顔をすることも)

静かに、黙々とする姿ももちろんあります。

私自身が後者のタイプだったので、先生に「ほら!」と手足に絵の具をつけられるのはとても嫌でした。「洗えば落ちるから」と笑顔で言われても、嫌なものは嫌!つけたくないのに!でも言えませんでした。

短大の保育科の授業で、絵の具を顔や手足に躊躇なく塗っている同級生を見ては羨ましく思い、「私は”表現”ができない」とコンプレックスを抱いていました。

保育士になりたての頃は、自分がされて嫌だったにも関わらず、ボディペインティングなどがあまり好きではない子に対して絵の具だらけの手でその子の手を握ってみたり、少しですが腕につけてみたりしていました。(しかし残念ながら、今でもそんな保育士や学校の先生はいます。)

私自身が表現は”そういうもの”だと思っていました。

幼い頃に手足やからだに絵の具をつける”子どもらしい表現”を経験をしていれば、私のようなコンプレックスを抱くこともないだろうと、間違った方法を取っていました。

今はそんなことは全く思わないし、私には私だけができる表現があると言えますが、その思い込みを持っている大人は多いだろうと思います。

たくさんの子どもたちと接しながら、自分自身も表現を楽しめるようになっていったことから思ったことは、

・自分のやってみたいことを、自分が決めること。

・それを誰かに否定されたり、「こうしなさい」「こうじゃなきゃダメ」と強要されないこと。

上記のことが保障されて初めて自由に表現ができる、ということ。

写真はほんの一瞬に過ぎず、それが表現の全てではないということです。

表現自体に良いも悪いもありません。なので間違い、失敗もない、ということです。

あんなことしている子がいる、こんな子もいる、

なのに、うちの子はしていない、やってない、できない…ではなく、

この子が今、出したい表現(方法)はこれなんだ、と認めることが大事なのだと思います。

それは「見る」ことも含まれます。

また「何もしない」ことも、表現のひとつになると思っています。

自由に表現するということは” に対して2件のコメントがあります。

  1. ムッシュ香月 より:

    素晴らしいです!
    お考えに大変共感いたします!

    公園のアトリエ拝見したいです♪

    morinekiのすぐ近くにある
    四條畷学園短期大学
    香月 欣浩

    1. nakayan より:

      香月さま

      ありがとうございます!
      つたない文章ですが、思いが伝わったようでうれしく思います。

      野外アトリエに是非遊びに来てください!

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